縁日の灯









 彼は未だ一人、波濤に漂っているのだろうか。

 金魚を見ていた。そんな彼をよく覚えている。
 もとより気管支が弱かった彼は寝込むことが多かった。同じ年頃の子供と遊ぶこともできないでいた彼に、縁日に自分が夜店で取った金魚を与えた。彼は祭にとんと縁の無かったので自分の祭の話に大層興味を持ち、金魚をとても喜んだ。夜店の金魚は硝子の器に移されて存外長生きした。
 言葉少なに金魚を見る彼は、彼自身もまるで水面に静めているかのように映った。

 武市が尾の長い金魚を持ってきた。
 一体どこで調達してくるのかと来島は尋ねたが、武市といえば無視を決め込んでいる。
「涼しげで良いでしょう。総督に差し上げてらっしゃい」
 高杉はこの雨季、安定しない天候に古傷をもつ左目が疼くようだった。頭痛も起こしているらしく、かといってそういう自身のことで周囲に何事か起こすことを良しとしない高杉は部下の前では平素のように通していた。
 しかし元より細い食はより食べなくなる一方、傍に控えることの多い来島などは本当に気を揉んでいた。心配していることを見せると高杉の尽力が無駄になると思い、何も言えないでいるが。
「武市先輩。この金魚入れる器は」
「その辺探してらっしゃい」
「じゃ、河上行ってこいッス」
「何で拙者!?」

「誰も彼もどうしてこんな若造の為に死ぬのだろう」
 彼が一度だけ本当に一度だけ、声を震わせたことがある。
 頭に巻かれた白い包帯はその頃見慣れたものではなかったが、彼の細い首に小さな肩、そして掠れた声がかつての彼の部屋を思い起こさせた。尾の長い赤い金魚がゆらゆらと揺れていたあの部屋。
 自分はもう何を言ったらいいのか分からず、ただ自分の体に彼を押さえつけ、今この時が通り過ぎたら今の言葉を聞かなかったことにすることしかできない。
 恐らく自分達はもう持たぬ。そのことをこの聡明な男が知らぬ筈は無い。
 何れ自分達は世を憚り逃げ惑うことになるだろう。死んだ方が幸いなことを味わわせられる未来だ。
 それでも彼は己を止められないし、その未来を疎んで自身で命を絶つこともない。彼の意志で彼は死ねない、彼を守って死んでいったものの為に彼は安寧を許されず魂が焼き尽くされるまで休まることは無い。
 そうなった時、自分は彼の隣に立っていられるか?
 大丈夫、何があろうと彼の華奢で小さい手を離さないと誓えるか?

「…金魚ォ?」
 頭痛の為に不貞寝していた高杉が目を覚ました時、一番に金魚が目に入ってきた。
 若干存在を主張するような位置に置いたのは一体誰か。もし自分が寝ている間に蹴っ飛ばしでもしたら危ないではないか。尤も自分は寝相が良い方だと思うが。
 それにしてもこの船の中によく金魚なんぞ手配できたものだ。
 夢を見た。いや、記憶か。
 体調を崩して寝込んでいた幼い自分に誰かが金魚を与えていった、あれは誰だったろう。年上ぶった髪の長い男だったような気もするし、銀髪のだらしない男だったような気もする。それとも萩に来ていた訛りのキツい奴だったろうか。
 最近は忘れることが怖ろしくて思い出さないことも多くなった。頭痛がそれを助長させている。
 もう、じきに思い出せなくなるのだろうか。じきに世界は色を失うのだろうか。
 そうしてじきに、この魂は解き放たれるのだろうか。
 その先にあるのは喜びなのか悲しみなのかもう分かりはしない。
 高杉は金魚の入った器を額に当ててみた。冷たい水の余韻がする。

 あの子は今も水の中のように静かな部屋で一人で泣いているのかな。
 なかないで。
 本当は金魚なんかじゃなくて自分がずっと傍に居てあげたかった。
 ずっとずっとお前だけを見ていたかった。

 彼に届きもしない言葉ばかり紡いでいるのはきっと、彼に届きもしない言葉ばかり紡いでいたことを思い出したのはきっと、少し早い縁日の灯を見たから。





















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梅雨の高杉と鬼兵隊と今を生きる人。